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森下仁丹㈱

新規 2024年6月30日

「森下仁丹株式会社」日本から世界に健康薬品を発信する優秀な企業。明治時代から現在まで活躍です。「えっ、森下仁丹さんが滑空機を作っていたのか?」って。少しご説明させてください。その前に主力製品の「銀粒仁丹」の思い出を少し。銀粒仁丹をごぞんじですか?お口にされたことはございますか?話は古くなりますが大正生まれの筆者の父は昭和17年帝国日本陸軍航空隊で大型機の操縦に入っていきます。南方方面が飛行域で大型機の昼間飛行は危険が多くほとんどが夜間飛行でした。

南太平洋の夜間洋上飛行は暗がりの中でコンパスをたよりに遠くの島影で目的地方面を確認するそうです。視力酷使はとにかく頭の疲労につながります。それを一掃できたのがこの「銀粒仁丹」でした。仁丹を舐めると頭がすっきりし、目が覚めると言って肌身離さず持ち歩いたそうです。「河辺の機体はいつも良か匂いがしとる」という話が残されていました。戦時中の表に出ない話ですが「銀粒仁丹」で苦難を乗り越えた軍人は多くあったはずです。

米粒より小さな仁丹粒は軍人を支えていました。

さて皆様この森下仁丹㈱の明治時代の創立者から流れる思想は「挑戦という心構え」が見えてきます。つまり新薬開発挑戦や、販売の工夫がすごく光っています。

さて、滑空機の件ですが、昭和12年の時代背景が大事な舞台になっています。昭和15年位から帝国飛行協会が青少年に「空へ」「航空機へ」という夢を奨励し昭和15年から朝日新聞社は全国の中学校に無償で初級滑空機を提供する活動を行います。その3年前の昭和12年に先陣きって森下仁丹は初級滑空機15機も寄贈する大企画を実行しています。これはまさに時代が何を欲しがっているのか、今は何が必要であるのかを見極める経営者の力ですね。ここは㈶帝国飛行協会経由で全国から選別される中学校大学校に寄贈するのでした。以下に当時のニュースを公開します。

森下仁丹㈱が寄贈に選んだ「アカシヤ朝日式5型改―1」の図面です。当時の初級滑空機では一番人気のあった機体です。アカシヤ木工が兵庫県に工場がありましたので関西の滑空練習では頻繁に登場してくるアカシヤ朝日式5型改―1です。

上記写真 大阪の高島屋百貨店に展示されたアカシヤ朝日式5型改の1

上記写真 昭和12年大阪の城東練兵場で行った「仁丹号寄贈式」の全容。15機寄贈という大事業に帝国飛行協会が立ち上がっている。

上記写真 森下仁丹㈱のウエブより抜粋。1937年を下記に拡大しておく。

上記写真 12月の寄贈が簡単ですが明記されています。

さて、今回協会は直接森下仁丹様を取材させていただいた。(web取材)。当時の詳細は残されていなかったが森下仁丹㈱社史ご担当部所様から貴重な資料のご提供がなされた。それは関西の業界新聞「道修ゴム機器新聞」にこの寄贈に関する詳細が記載されていた。この内容は驚くべきものが見える。昭和12年に全国の先陣を切って企画されたこの滑空機15機の寄贈は大きな重要な出来事として国がとらえ祭事には帝国飛行協会から四王天延孝閣下が出ておられる。彼はなかなかその姿を後世に残していないが今回貴重な肖像画も見つかりました。

上記写真 詳細が読めないので別途区割りして拡大を下記に貼ってみますのでご覧ください。

四王天延孝閣下をご紹介しておきます。当時の国内航空事業の要でした。帝国飛行協会常任理事。理事の肩書ですがほとんどが四王天の一言で動いてきた流れを見ることができます。海外にもその名前が通るものがありました。詳細はウキペデイアを検索ください。

        文責、資料提供責任者日本滑空史保存協会河辺新一