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アカシヤ木工航空部

アカシヤ木工株式会社をご紹介したい。非常に興味深い会社 でありながら、その全容が全く見えないのである。残された実績は素晴らしいのであるが、会社の実態がわからないというもどかしさ。話はかなり昔に戻すとこから始める。              昔々出雲の国で出雲の神に差し上げる御神酒を造る杜氏に飯国という一族がいた。経緯は不明だが一族の中から丹波の国伊丹に移り住んだ飯国一族の流れが見える。なぜに伊丹であったかが見えないが、杜氏職・伊丹・六甲・聖水・という点が見えてくる。伊丹に入った飯国一族は伊丹で酒を造っている。当然白濁の濁りであるがこの伊丹の国でそれが清酒として生まれたことはあまり知られていない。当然伊丹の酒は献上され、将軍や天皇に献上され押しもされぬ天下一の酒となる。時代は流れ明治なって文明開化が押し寄せる。飯国一族の一部が宮大工の仕事についており、家具や神社仏閣で活躍していたが輸入の打弦楽器ピアノを見て「これからの木工の世界で充分作れる」という自信の元大正15年に伊丹に工場を起こし本社を大阪市東区に設立。名前を「内外ピアノ㈱」と言う。

 さて、内外ピアノの歴史が見えないが、昭和12年に内外ピアノが吸収されて「アカシヤ木工㈱」という会社が資本金100万円で始まる。当然出発はピアノ製造屋や家具、宮大工である。当時の広告にはアカシヤンピアノとか書かれる。さて時代は航空機や滑空機に視線が向く時代であり、国中の木工会社が航空機部品や滑空機製造を取り組んでいく。アカシヤは広大な敷地に工場があり楽器部門と航空機部門とに分かれていた。航空機滑空機は木工工作技術はあってもなかなか難しいものがあり、当時の先端技術で名機を作っていた川西航空機工業から2名の技術者の協力を得て滑空機製造に入る。

ここでまでは多くの書籍や公文書で解明できたのであるが、このアカシヤ木工㈱はアカシヤ設立後すぐの昭和13年に社名変更するのである。東洋金属木工㈱となりて代表取締・林 安繁。専務飯国重之助。内外ピアノからアカシヤとつながってきた飯国一族が代表になってないことは何とも気になるところである。本社は大阪市において工場は兵庫県川辺郡伊丹町北村に置いた。この住所は元のアカシヤ木工の住所であり、そっくりそのままが東洋金属の工場になっている。つまりアカシヤ木工株が商号変更しただけであった。

参考書類・日本工業新聞・朝日新聞・大阪市中央図書館・大阪市紳士録名鑑・大阪商工会議所・大阪市銀行取引所・国立国会図書館・日本生命地域図鑑など抜粋。

次回からアカシヤ木工㈱の製作機体を紹介しますが、アカシヤか東洋金属の製作かが見えないものが多く出てきます。また写真の貼り方は製造順や時系列には沿っていません。記載河邉。

初公開です。アカシヤ木工㈱航空部のテスト滑空士大久保正一氏です。機体はアカシヤ式積雲2型セコンダリ。アカシヤは自社開発の滑空機にクラス別に愛称を付けます。初級機プライマリーは層雲。中級機セコンダリーは積雲。高級機ソアラーは巻雲という名称です。シリーズを作る前提が見えます。アカシヤの積雲シリーズは1型から5型まであります。この写真は協会の松本陽一機体検証担当が大久保正一ご遺族の取材をし、お借りしたアルバムからの写真で、生写真です。機体デザイナーは山本勲と言われる。

初公開です。アカシヤ会・・・長年追跡していますと、どこかで誰かと巡り合って、驚愕の資料に出会うのですよね。戦後アカシヤ会が作ってありました。感謝。

2024年3月17日  朗報です。長年探索してきたアカシヤ・アカシヤ木工・アカシヤ木工航空部・東洋金属の新しい情報が目の前にあります。我々と違った視線で探求されていた複数の方々と横のつながりが出てきました。我が協会がもう一歩のところの壁が乗り越えられなかったところにあざ穴が開きそうです。お楽しみにお待ちください。

     2024年6月8日 更新 滑空機の紹介の前に大久保正一滑空士をご紹介

大久保正一滑空士が朝日新聞社発刊の航空朝日に寄せた寄稿文です。

松本陽一活動員機体検証担当が鳥取にお住いの大久保正一ご遺族様の対談を行いました。

大久保正一の活動内容の一部を書いてみます。東洋金属木工㈱アカシヤ滑空機班はDFSオリンピアマイゼの機体完成を2番目に完成します。この機体のテスト飛行の栄誉は大久保正一が担っていました。

大久保正一 1級滑空士

鳥取市出身、東洋金属木工株式会社(アカシヤ)所属1級滑空士

昭和16年9月鳥取砂丘で自作のハンググライダーの飛行に成功

(下記新聞記事参照)

昭和11年(1936)9月2~4日 朝日新聞社主催全日本グライダー大会

         長野県霧ヶ峰 ウインチ発航ソアラーの部で1位

昭和12年(1937)5月23~27日 第1回日本帆走飛行競技大会

         セコンダリーの部で1位

昭和15年(1940)8月10~15日 第4回全日本帆走飛行競技大会

         富士山5合目出発 3位

昭和15年(1940)10月10日 大阪盾津飛行場にて、日本最初のオリンピアマイゼによる3機直列曳航飛行

昭和16年(1941)5月18日 生駒山滑空場完成記念大会 参加

昭和17年(1942)6月6日 生駒山滑空研究会開会式に高級機による模範滑空

戦後鳥取県高速度スポーツ連盟を結成。昭和28年セコンダリー天馬号を製作。飛行。

関西地区の大学滑空部員の指導。

自作のオートジャイロ、ヘリコプターの製作、研究に没頭。

                            松本 記

      更新 2024年6月9日 アカシヤ機体公開の前に

1937年昭和12年アカシヤ木工㈱が誕生。しかしアカシヤ木工㈱で製作された機体の実態がわからない。この時期、アカシヤ木工㈱の1年間はピアノ製作に打ち込んでいたのではないだろうか。1935年昭和10年ドイツからやってきたウオルト・ヒルトは日本を回って滑空の魅力を披露する。それに触発されてアカシヤ木工㈱が滑空界に視線を向けた感じもある。しかし、滑空機を作る会社の主力がピアノ製造ということに抵抗があったのかもしれない。そこでアカシヤ創立後1年で時代の流れに沿って、事業拡大という大義名分のもと航空機全般の事業を狙い「東洋金属木工㈱」と社名変更を行ったように見えるが滑空機名称にアカシヤの固有名詞を残す。東洋金属木工㈱で製作される滑空機は「東洋金属木工アカシヤ●●型」という名称が適切と考える。純粋なアカシヤ木工㈱の製作機体ははっきりつかめなかった。

このアカシヤという名前が外せなかったいきさつは、アカシア木工㈱の以前からの流れでピアノ製作が柱となっており開発者の飯国重之助はアカシヤの名称を残す事が生涯の務めと自負があった。この流れは1945年日本敗戦後もアカシヤピアノを引きついでいく勇者がいたことで見えてくる。国産ピアノアカシヤの「アカシヤン・マイシュナー」に強い強い執着をもった勇士が島根に根付いていたのであった。その男の前には滑空機の世界はすでに忘却の域となっていた。アカシヤは「ピアノ以外のものに魅力はなかった」。 そこで機体説明は次項「R-19東洋金属木工㈱」で行うことにする