2024年6月9日 新規 東洋金属木工㈱
会社の案内は別項「R-18アカシヤ木工」で書いております。ここでは東洋金属木工㈱が手掛けた主力滑空機を初級機プライマリー、中級機セコンダリー、高級機ソアラーに分けて公開してみます。今回はプライマリーのご案内です。
文部省1型
朝日新聞社発刊月刊誌「航空朝日」より抜粋です。当冊子は故小森郁雄航空朝日編集委員ご遺族様から全巻のご寄贈がありました。
この文部省1型の垂直尾翼に不可解な線を見ています。アカシヤが自由に設計変更したのか?それとも写真が加工されたているのか?機体番号B-2689。
実際の文部省1型承認機体はこの様な垂直尾翼です。
更新 2024年6月11日
東洋金属木工㈱の会社ですが滑空機の紹介はすべて「アカシヤ」という冠が表に出ます。会社名は控えめに。昭和18年頃の航空雑誌に記載の広告です。
更新 2024年6月13日
東洋金木工㈱は機種にアカシヤの愛称を付け初級機プライマリーを数機種製造します。 手元の保管資料その中のベストセラーを2機種ご案内します。アカシヤシリーズはプライマリーに「層雲」、セコンダリーは「積雲」、ソアラーは「巻雲」という雲シリーズの冠を付けています。今回はアカシヤ層雲3型とアカシヤ朝日式5型改の1をご案内します。
- アカシヤ層雲3型
2.アカシヤ朝日式5型改の1
下記写真説明。京都木津川にあります河川敷の滑空場で練習中の浪商滑空クラブの島本真滑空士。
下記写真説明 期日はわかりませんが大坂の高島屋百貨店で「滑空機の祭典」らしき祭事があったそうで、そこに展示されたアカシヤ朝日式5型改の1です。この資料は島本真と大久保正一両名から同じ写真を見せていただいた経緯があります。多分大きな祭典であったので記念に持っておられたのでしょうね。大久保氏は制作会社の立場で島本は飛んだ立場。
下記写真説明 同じく高島屋百貨店の滑空機の催事に掲示された島本真本人のポスターです。スローガンの「空だ男のゆくところ」は当時盛んに歌われた言葉ですが、ポスター原画写真には文字が無かったので後処理で貼たことをお伝えします。
更新 2024年6月18日
東洋金属木工㈱アカシヤの中級機セコンダリーの主な機体をご案内します。プライマリーで自信が出来た東洋金属木工㈱の滑空機製作部アカシヤでは上級機の設計に著名な設計デザイナーの雇用を具申します。東洋金属では早速人材を当たり、川西航空機の進藤鈔技師,禰木春夫(ネギハルオ)技師を迎えることになる。
製作される機体は朝日式5型改―2、アカシヤ式積雲1型~5型。特別な製作機が進藤式BS-6型。以上東洋金属木工㈱が手掛けたセコンダリーです。今回は現在本協会で保有する資料のみ公開となります。
1,朝日式5型改―2
2,アカシヤ式積雲2型
3,アカシヤ式積雲3型
4,アカシヤ式積雲5型
5,進藤式SB-6型
更新 2024年6月19日 上記進藤式SB6型の説明。
昭和15年になると独逸からDFSオリンピアマイゼという高級滑空機が日本に到着する。昭和15年3月の末に東京でマイゼのお披露目滑空があり、一気に滑空機という世界に世間の目が向いてきた、この機会をとらえて新生大日本飛行協会は全国に向けて滑空界に参加できる企画を練るがスポンサーが必要となり、東京日日新聞と大阪毎日新聞社へ企画を持ち込み協力を得たことで、懸賞金付き公募を全国に告知する。時に昭和16年1月であった。皇紀2600年の熱も冷めない時であり企画は立派なものであったと思われる。しかし、思ったほどの応募が無く、審査に回せるものは20通程度であったそうだ。厳正な書類審査が行われ、結果は4機種が認定される。公募後1年半の時間が経過、昭和17年5月になっていた。その後実機試作機提供が行われテスト飛行の結果が出た。その合格4機種テスト飛行の結果の1機種がこの進藤式SB6型である。この選考では優秀作品1等は無く、2等の進藤式SB6型が表彰を受ける。すでに昭和17年11月の空があった。機体製作は兵庫の東洋金属木工㈱ですが審査請求人名義は「進藤鈔」となっている。今思うに「書類審査の時は設計士や企画企業の名前は伏せて書類審査」としたのであろうか、とても気になるのだ。
しかしその後優秀作品となったSB6型の活動を目にすることはなかったし、この試作1機で終わったのかも分かっていない。懸賞金迄載せた企画としてはその後の活躍を期待したかった。
更新 2024年6月20日
東洋金属木工㈱で作ったソアラーの話です。東洋金属木工㈱アカシヤでは、ソアラーの製作が2機種見えます。巻雲1型(1機A-1508)と巻雲2型(3機A-1515,A-1537,A-1538)があります。(マキグモかケンウンか不詳)東洋金属木工㈱がその後滑空機製造から離れていくのは軍需産業に道が開くという大きな企業展開に成功します。あまり知られていませんが美津濃が抱える軍からの開発物が東洋金属木工㈱を下請けとして流れていました。
さて、巻雲シリーズが脚光浴びるのは一人の半島出身(当時の朝鮮半島)で大日本少年飛行団大阪本部嘱託の金光漢二級滑空士の生駒山で美津濃グライダー研究会主催の「耐寒滑翔訓練」に部外者として滑空機持ち込みで参加したときになります。それはあくまでも極寒の滑空研究飛行であり厳しい制約の元で行っています。このような規律はスポーツ精神が頭にある美津濃ならではの行動と思います。
まず夜間飛行の禁止などが決められていた。この訓練飛行でアカシヤ巻雲1型が偶然に滞空日本記録を作ってしまった。部外者ということで自由に夜間飛行を実施、A-1508です。
しかしこのストーリーはここで終われなかった。この半月後九州福岡県久留米で滞空日本記録を目指し風待ちをしていた前田式703型が金光漢滑空士の日本記録を塗り替えます。実はここからが大きな問題が起きる。金滑空士は自分の記録が破られたことに奮い立ち準備が整わない中で再度滞空日本記録を狙うことになる。この時の再挑戦にアカシヤ巻雲2型A-1515を借りだすのであった。極寒を考え、密閉式キャノピーを持つ巻雲2型は体格のいい金滑空士にはとても窮屈であった。(写真参考)思い立ち飛行の悲しさかな、夜に風も落ち暗闇の着陸の無謀さに機体は大破し、A-1515は破棄されて終わりました。さて、巻雲2型を観察してみよう、昭和14年作にしては線図が美しい。胴から優しく尾部に絞り込むラインは博多の前田工作所得意の工作技術が見て取れる。基本はドイツにあるのだが側面の線図は上手い。前田式6型と7型をイメージさせる。巻雲2型が前田6型に似てガルウイングを支柱が支えます。6型をわずかに小型化したイメージですが大きく違うのは、主翼平面が6型はゲッピンゲン1型と同じく補助翼が張り出しますが巻雲2型はそつなくきれいな曲線で納めています。
昭和18年1月末に大日本飛行協会主催で「冬季生駒山滑翔演習会」が開かれ河西大治滑空士はアカシヤ巻雲2型に搭乗し6時間34分を打ち出します。アカシヤ巻雲2型・・もっと活躍できる機体であったはずです。
東洋金属木工㈱アカシヤのソアラーの報告と致します。文責河辺。
この項目は美津濃グライダー滑空士故島本真、大阪グライダー倶楽部故高山宗夫ご両名を大阪市内でインビューを実施。多くの未公開写真を閲覧できたことを合わせてご報告いたします。
東洋金属木工所㈱アカシヤの巻雲1型。冬季練習で飛んでみたら滞空日本新記録につながった機体です。滑空士は大日本少年飛行団大阪本部嘱託滑空士 金光漢
写真左は夜間着陸後の金滑空士
下記はアカシヤ巻雲2型。昭和16年2月7日九州の久留米で前田式703型が滞空日本新記録を作るので、急遽自身の日本記録を守るために生駒山に運んだ巻雲2型の写真。この写真は故島本真が長く保管していたが大坂に取材に入った河辺の熱意に打たれ、旧友高山宗夫同席の中で河邉に公開した、未公開の貴重な写真である。未公開にされた理由は別途で書きます。
生駒山山頂から発航するアカシヤ巻雲2型。
写真右。東洋金属木工㈱の工場運動場で撮影。機体番号が鮮やかに光る。
写真上。米国から大阪へ招かれた金光漢夫妻。左から大和拓三、金光漢、一人置いて吉川精一、金奥様。確かに金滑空士はスリムだが背丈がある。これでは滑空機座の中では足は延ばせず窮屈であったはずだ。写真提供島本真。