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九州帝国大学航空会 田中丸治廣の世界

皆様にお聞きしたい。「田中丸治廣」(タナカマルハルヒロ)や丸さんの愛称で親しまれたこの方をご存知であるか。日本のグライダーの書籍をめくってもなかなかその姿は見えない。ただし、九州帝国大学の滑空機や佐藤博の書籍となると必ず、いや絶対に名前が出てくるのがこの田中丸治廣である。「何者ぞ?」そこまで重用であれば日本の滑空界の中で名前が通ってもいいはずなのに。そこがこの世界の見解の狭い執筆者が多すぎ・・・イエご自分の足を運び取材すれば必ず対面できたのに、過去の書籍を参考にして筆を握り文字の焼き直しだけで歴史を語るという愚かしさの表れが田中丸を書籍からイレイザーしているのである。残念至極である。

拙者が20年前から田中丸の題材で悩んだ時があった。米国から「佐藤博や志鶴忠夫の話は十分わかっているがなぜ九州大学で有名な田中丸治廣の情報が出ないのか?河辺はなぜ田中丸を書けないのか?田中丸って本当にいたのか」。これがアメリカで滑空機の研究をしている若人のメールである。

河辺は言う「なぜそこまで田中丸が重要なのだ」。

アメリカが答える「君たちは滑空機を知ってるのか?佐藤はデザイナーである、紙と鉛筆の世界で生きていた。志鶴は滑空士である、つまり飛ぶために動き記録も作った。では田中丸はどうであったか、彼は佐藤のデザインを形にすべく知恵を出した、それが実際に問題ないかを実証し改善しおまけに記録まで作っている、つまり作って飛んだのだ、アルバイトで少し手伝って作ったのではないのだ。アメリカではこのような人物、つまり作って飛ぶ、その人をグライダーマンという。それが田中丸治廣だろう。そのような重要な人物を隠すことがアメリカで、は考えられないのだ。つまりヒーローであるはずなのだ。河辺、お前の責任は大きいのだ、田中丸の名前は出したが中身を書かないことは卑怯だ」ここまで強く批判を受けたことがある。

河辺がっくりと落ち込んだ記憶がよみがえる今がある。実は丸さんとは長いお付き合いがある、わたしでなく私の父との長い交流だ。当然私に物心がついたころから田中丸治廣が前に居た。私はいろんな秘話や実話を持っている、しかしふたを開けるとなんと滑空機に関する情報がほとんどないのである。手元に昭和19年~20年にかけて某特殊滑空機の完成が遅れており、その支援に向かう話が手紙に書かれているものが手元に残されるくらいなのだ。河辺は慌てて田中丸ご遺族を探し何度かの打診の後、取材の快諾をいただけたのである。ここまで15年の月日が流れて居た。

今手元に数冊のアルバムをお借りしてる。丸さんの几帳面が刷り込まれたアルバムである。まったく知らなかったことを写真で目にすると、九州大学が某滑空機を1機受注として受けていた、初めて知った。それは田中丸技師がいたから実行されたのであるが歴史からは見えてこないことであった。このアルバムは恐ろしくもあり力強さも見せるものがある。今後はこのページでアルバムの公開となっていくところである。

皆様は読まれたどうかわからないが川上裕之著 日本昭和航空史「日本のグライダー」全414頁のなか118頁に筆者川上が書く「名滑空士志鶴さんや田中丸さんたちだから乗りこなせたのであろう」と。川上裕之は佐藤博資料をくまなく閲覧し九州帝国大学に残された田中丸の功績を眼にしたことがうかがえるのである。つまり彼は田中丸治廣が「超一流のグライダーマン」であることを書きたかったに違いない。あの口やかましい厳しい執筆の川上裕之の言葉がそれを物語っている。今からの生写真を乞うご期待。文責河辺。

田中丸治廣、その人である。皆様は初めてご覧になったはずである。今まで田中丸治廣の写真は公開されてこなかった、いや、誰も田中丸に視線が向かなかったことも有る。なぜなんだ?今回取材させていただき、多くのアルバムを拝借し、直筆の経歴書に目を通すとそこに現れる事実は驚愕であった。筆者もうかつであったのは「田中丸」という姓を見逃していた。今回履歴書で生まれが佐賀県小城郡・・佐賀の田中丸・・名門ではないか。ここは完全に見逃していた。佐賀県、昔の鍋島藩は多くの偉人、賢人を出してきた。しかし有名と言うよりも早くから海外との接触が多かった賢者は、名を売るよりも実績で勝負してきたのだ。そこにはかの有名な葉隠れ精神で歌われたーー「武士道とは死するものと覚えたり」ーーが息ずくのであった。近代史では日本を持ち上げ立て直してきた多くの賢者を見るに至る。田中丸治廣が佐賀の出であったことに今更驚いていては立つ手が無い。佐賀の田中丸一族は近代史において「玉屋」の創立者であるのだ。このひとことでいろいろなことに結びついていくものを感じことがある。佐藤博も佐賀、日本航空の立役者松尾静磨も佐賀、江崎グリコも佐賀であり全部が滑空界につながってくる。田中丸治廣はただひたすらに滑空機の研究に励んだだけで、仕事を楽しみいかに完成品に近づくかだけが生きがいであったのだろう。名声や賞賛は全く眼中にない世界を生きていた。まさに佐賀が生んだ山本常朝の葉隠れ精神論を地で生きたのである。

写真は昭和18年の初夏から秋の頃と推測する。座する機体は九州大学財団法人滑空研究所を任された佐藤博のパートナであった田中丸治廣が設計主任で製作した「九帝11型」の1号機の試験飛行の時である。アルバムにそのように記載を見る。機体1号機の完成が昭和18年6月と聞いてきた。場所は福岡県糸島郡元岡村に広大な飛行場があった。名称は「福岡飛行訓練所。訓練を目的に開発した訓練所である。次回はこの九帝11型を追ってみたい。文責河辺。

2024年3月17日  記載事項を少し変更しましょう。九州帝国大学に滑空研究財団ができ、田中丸治廣が担います九帝11型の詳細な写真が手元にありますが、やはり「田中丸治廣の世界」となれば最初にもう少し幼少時代や青春時代、九州帝国時代の全く表に出ていないところから始めたいと思う。今回は履歴書の筆頭が昭和6年5月・・九州航空会に入会する。と書かれた。「オーここにおられたのか」という感想だ。面白いことに九州航空会を前田建一が起こすのであるが、公式な発会は同年6月が発会なのである。多分田中丸治廣は設立前の頃から前田に出入りしていたに違いない。田中丸治廣の聡明な頭、高等学校卒業は福岡高校だ、なんと秀才なコースを歩んでいたのに、なぜ、、なぜに先行き見えない零細な九州航空会に足が向いたのだろう?筆者は今、ここで立ち止まってしまった。

-2024年3月28日  いまだ立ち止まっている筆者である。どうしても時系列では生い立ちも必要になっていくが、ここが全く見えてこないのである。申し訳ないが再度田中丸治廣ご遺族様に取材のお願いを申し込んでしまった。昭和6年雲をつかむ話で誕生した「九州航空会」に即入社してる、ここが紐けないと話が先に進めない。イヤ、もしかすると先見の目を兼ね備えていて「これだ」と言って飛び込んだのだろうか?再取材が終わるまでに時間があるので話を一気に昭和17年にとばし、九州帝国大学財団滑空研究所で始まった「九州帝国大学型7型」(通称・九帝7型)を超える設計が始まり公称九帝11型の製作工程から公開していこう。

写真は田中丸治廣ご遺族から拝借のアルバム帳の1冊の中の一コマである。表題は「九帝11型製作、試験飛行」と書かれる。製作室は滑空研究所となっている。見た感じではコンクリートの壁と思われる、さすがに帝国大学である。遮光ネガネは田中丸治廣。なぜにこのような眼鏡を、、そうなんです、ガス溶接もやっていたのですね。図面も書く、木工、金工、塗装、ミシン縫いすべてを手掛けることができるのである。ここで筆者は米国から強く言ってきた「グライダーマンという定義」に向かい合う今があるのであった。でもなぜ米国が田中丸治廣の手腕の情報があったのであろうか。

この写真から見えるものがある。田中丸が滑空機制作の教官であることは間違いないが、彼がひとりで作ってきたことはありえない。大学という舞台だから学生が多くいて人材は事足りていたはず、、とはいかないのである。学生には別の難問が多くあり滑空機の製作などは実習時間のわずかだけを利用できていた。ではいったい誰が張り付いたのか?それは今から少し解明したい。想像しなかった組織の存在が佐藤を、そして九州帝国大学航空会を支援していたのであった。文責河辺。

更新2024年5月19日

2024年4月21日 (日)取材

田中丸治廣ご遺族と2回目の取材をお願いし、青春時代のお話を伺うことになった。

滑空機の世界に入る前の故田中丸治廣の記録が別室から現れる。それはご長男の両腕にアルバムや資料が大事に運ばれてくる。

                      

前回は滑空機だけの田中丸治廣の世界をうかがっていたのであるが、まだ陽の目を見るに至ってない青春時代の活躍が大切に保存されている様子がうかがえる。その資料を拝見して一番に頭に浮かんだのは「田中丸治廣、やはりただの技術屋」ではなかった。河辺がにらんだ通りのストーリーが埋もれていた。しかも治廣本宅で今まで眠りに浸っていたことになる。長い眠りから覚めるにはあまりにも時間がたち過ぎていた。          

まず驚愕はオーストリアの「ヒュッターH17A」の図面が損傷なく眠っていた。閲覧がすくなかったのであろう、青図が痛んでいない。この図面にまつわる話が記憶にあります。前田航研が陸軍から「KU-10」開発にあたり、このヒュッターも研究した話が残されています。前田建一、佐藤博、田中丸治廣・・つながっていますね。

もっと驚いたのは佐藤博がドイツを離れる、お別れパーテイーの時にウオルト・ヒルトほかワッサクッペの協会から記念の盾の寄贈がありました。このパーテイ会場の話は、佐藤博が生前講話で良く使っていた貴重な話がありますので別途書いておきます。佐藤博曰く「オリンピックの金メダルは数多く作るがこの盾は極少数の貴重品」と言って、九州帝国大学大で自分と活躍した同志に配ってあります。

まず河辺忠夫が1個いただきます。志鶴忠夫も1個受けています。そして今日ここで、田中丸治廣のご遺族方で残る1個を拝見させていただきました。多分佐藤博自身もお持ちでしょうから計4枚が確認できました。

田中丸治廣、青春時代の活動を記しておきたい。ここでご両親に登場いただくことにする。

治廣の父親は仕事の関係で東京に移り住まわれ、ここで治廣は生まれる。佐賀の田中丸家筋がすごいことはかなり見えてはいたが、佐賀での活動ではもの足らず上京されたのであろう。ここでインパクトがある話として、佐賀鍋島藩出身の大隈重信公(のちの日本内閣総理大臣、早稲田大学創立者)がまだ若かりし頃からの交流などがあり、幅広いお付き合いが見えるのである。

さて東京で生まれた治廣、両親の移動に伴って博多へ移り住むことになる。ここからは治廣直筆の「履歴書」を元にご遺族のお話を参考にして語ってみたい。           

「とにかく頭がよかったという話しはよく聞かされてきた。」これがご遺族の開口一番である。どうやら秀才であったようだ。理化学が得意、数学が得意、読み書きが得意、物知りである、となれば、だれからも「博学の丸さん」という声がかかっていた。とにかくものの伝え方が上手かったようだ、聞き上手の教え上手となればだれからも慕われることになる。この性格がのち世界大戦が終結するまで、いや終結後も、滑空機、ヨットの指導者として公的な立場を維持できていた。さて、話をもとに戻そう、福岡の人間で「大名小学校卒」を聞くとうらやましがられる。福岡の中心天神町に校舎があった。卒業生に有名な「広田弘毅」がいる。

昭和5年県立福岡中学校(のち県立福岡高等学校)卒業。ここがまた英才教育の学校で、福岡では、福岡高等学校か修猷館高等学校や筑紫丘高等学校が筆頭に上がるところである。福岡秀才高等学校ご三家の一つである。福高卒業と聞けば、地元では九州帝国大学が当たり前のコースとなる。しかし、大きな起点は旧制中学時代(県立福岡中学校時代)に起きている。多分自宅近くが海岸にあったらしく、毎日海を眺める治廣の眼には、風がみえる、海の流れがみえるすべてが肌に感じる景観があった。治廣の持ち前の「科学、物理、工作技量」が黙っていたはずがない。自然と「何か」を作るその情熱は静かにこみあげていた。

「僕にだって船は作れる」この心構えがこれからの窓口になろうとは自身も思ってもなかった。さて、何をつくればいいのか、迷った挙句「ヨットだ」と決めるには時間は必要でなかった。風、ここに集中すればすでに設計は頭に描けたのである。博多湾は難しい。海の流れと風のややこしさは有名である。大きな湾に能古島がでんと構える。海流は幾筋にも別れ、吹く風の分岐は目まぐるしく変わる地形である。製作目標は艇長4、5Mのジュネット級と決まる。ここで直面するのは、やはり金銭問題である、昭和3年中学4年生のころと思うがこうなれば学問よりもまずは資金調達だ。苦労の末、1隻のヨットが仕上がる。メインもジブも自分が縫製し、博多湾の風を一杯膨らませて、いざ出航。「丸さんどこに行くの」、と言う声を後に、治廣はメインを絞って進路を一路北東にとる。博多湾を縦断し「志賀島」を目指したのである、しかも初めての手製のヨットで。無事往復し、親戚仲間から「凄かね」の賞賛を浴びたのであった。

当時の治廣は、進学か趣味かと迷っていた。大学は遠くになかった、いつでもどこにでも入れる自信もあった。ここがまた秀才でないとできぬ技を感じるのであるが「何が何でも大学が一番」という固定観念は持たなかったような性格がみえる。つまり大学で学ぶということより大学で教えてあげたいという心意気がうかがえる。

目標は九州帝国大学にあったが、少し回り道を選択すると、なんとしたことか、神が大きな愛の手を差し伸べてきた。

話しは変わるが当時佐賀から出た田中丸一族の田中丸善蔵が大型百貨店をお隣の長崎県佐世保で起業し成功、次は九州一の博多で百貨店を経営するに至る。

博多で最新型の百貨店経営に乗り出すが社長の田中丸善蔵は人目を引く大型電飾看板を考案し製作に乗り出し全館電化に向けて動くが、玉屋の従業員に電気に詳しい者や管理できる技師もいない。誰ともなく「田中丸家系に治廣というとても聡明でものつくりにたける男がいる」という話しが玉屋の総務に入ってくる。治廣、玉屋百貨店の「電気部に就職」するのであった。昭和5年、18歳になっていた。

さ、資金のめどもできた、好きな工作で職場でも力が発揮でき、趣味に回す資金の余力もできてきた。これが順風漫帆だと安心したころ、優しい女神がそっといたずらを仕掛けてきたのであった。それは優しく頬を撫でる風のような感触であったらしい。(2024年5月18日文責河辺次回に続く。)

更新 2024年6月15日

厳格な父の教えとして「朝は朝刊をしっかり見ておくこと」を言い渡されていた治廣がいた。

その衝撃な出来事は、やってきたのである。治廣の目がジーッと一点から離れない。新聞の記事に「博多で滑空機を作って飛ぼう、と言うグループがでてきた」というのである。まずは興味に背中を押され、この記事を頭に玉屋へ出勤。百貨店という所は言い換えれば情報の集まるところでありまた情報の発信基地でもあった、そのような動きが求められる企業でもあったし、博多玉屋は競ってそのような展開に窓口を広げていた。ここで治廣が仲間内に朝刊の話を出すと意外や「その広告紙を読んだ」というものがいた。

田中丸治廣はその内容が見えてきて、まずは現場の博多柳橋町の前田建設ビルに足を運んでいく。3階建てのビルで今で言うテナント形式の建物であった。1階に「おしるこ」の看板があり(ビルオーナーが店主)、二階は撞球(ビリヤード)とマージャン荘の文字が見える。どこにも飛行機や滑空機の案内が無い。いぶかしげに階段を上がり、3階のドアを開けると「プーン」と独特の異臭。

壁には古材、角材板材、わけがわからないガラクタ、飛行機の廃材らしき金属片、ワイヤーなど、何とも言えない廃材の置き場であったが、既に数人の訪問者は明るく笑談。治廣には頭の隅に懐かしい匂いであり、古材の加工に見覚えがあるものを見つけていた。「オー、思い出すな、ヨットを作っていたころにそっくりの舞台だ」と、第一印象があったらしい。さて、治廣が伺ったときは既に数名の先人が訪れており、そこに九州帝国大学の帽子の学生もはいっており、学術的に何かを作っていくことは確信できた。

福岡市博多柳橋、那珂川沿いにあった前田建設の3階建てビル。写真は昭和62年発刊、西日本新聞社「青山白雲」より。

「おー、あなたが田中丸さんですか」とバリバリの熱血男子から声が飛んできた。

昨日、今日と多くの仲間が来てくれました、と言って、大風呂敷きを広げた話が始まったのである。しかし話の隅々には確実な技術の話や、人生観、世界における日本の立場、若人に引き継ぐ技術論は合点がいくものばかりであり、これが実際にうごくのであれば玉屋で働くことは小さな世界に見えてきたのも事実であった。そこには九州帝国大学造船科で取り組む航空科の話やすでに学生が集まってきた事実は、もうこの活動に疑う余地もなかった。ここで代表の前田建一が「田中丸さんあなたに是非紹介したい仲間がいる」と言う。その男性は背丈は高く、どこか日本人離れがする風格であり無口で黙って立ってある。「筑後から来ました飛行士の志鶴忠夫です。」運命の出会いであった。九州帝国大学の佐藤助教授の初対面は少し日にちが遅れるのであった。次号へ続く。

更新 6月24日

 九州航空会のスタートに発会式みたいな決起会はなかった。それぞれが責任をもって自分ができる範囲の作業をこなしていくのである。木工が得意、絵画が得意、金工などの得意分野が集まる、何でもござれの集団であったが、そこは九州帝国大学がはまり込むので、とても学識が高い組織となっていった。さて当時のことを治廣はこの様に語っている。ある日治廣が木材の選択をやっていた、佐藤先生が「田中丸さんなぜ木材をわけているのですか」と。

治廣は軽い気持ちで答える「ハイ、木材が混在しています、ヒノキや杉が一緒に置いてあるし、中には高価なチークもあり米マツも見えますのでなるべく同じ質に分けます」と。すかさず横から前田が声を挟む、「佐藤先生、よーと見てみんですか」と言って翼小骨に使う小割前のヒノキの板材の小端に朱肉の色が塗ってあるのを指さす。前田が言う、「田中丸君には何も伝えてないがこれは小割すると木材の末口がどちらかわからなくなるので早めに目印を塗っているのではないかと?そうでしょう丸さん」。このようにしてそれぞれが持ち得る知恵の発揮を確認していた前田がいた。さあ、九州航空会の初発の滑空機はその名前を「佐藤・前田式1型」と決めた。順調に仕上がってきた。

上記は㈲海鳥社「日本グライダー史」より抜粋。九州航空会の規約である。

さて視線をご近所に向けてみよう。

ここは博多駅から近く近所には遊楽街もあった。前田ビルの正面玄関から見て右斜め前に商店街がありここの大地主が住んでいて、そこに「悪そうなガキ」がいた。彼は毎日前田ビルを眺めては時々窓から突きでてくる意味不明の物体に興味があった。ある日それが真っ白な紙か布か貼られ、ガキは父さんに尋ねる「あれはなんだろか?」と。「あれは発動機が無くても空を飛べる竹トンボのおおきなものだ」と。子供は驚きと夢でそれをみつめていたがまさか自分が九州帝国大学で滑空機を作ることになろうとは夢ゆめ思いもしなかった。彼の名前を大庭茂という。のち田中丸治廣の片腕となり九州帝国大学と前田航研を往復する立場になるのである。さて九州航空会は無事に1号機を完成し九州帝国大学において組み立ても終わり、いよいよ試験飛行に入るのであった。

上記写真。これは貴重な写真、田中丸治廣ご遺族が保管される「田中丸治廣アルバム」のなかから抜粋。台紙には「空への初陣」と書かれていた。佐藤・前田式1型の、そうです、九州航空会で手作りされた滑空機の完成と試験飛行の時です。九州帝国大学裏手の松林空き地で飛ばしています。筆者が判断できるかただけお名前を記します。

前列左から二人目「田中丸治廣」。前列左から3人目あぐらの人物は「前田建一」。後列立てる人の右に「志鶴忠夫」。一人置いて「佐藤博」。

 更新 2024年6月30日

今回は本部から特別のご報告です。

「田中丸治廣の世界」を公開しています。取材をお願いして判った情報と筆者が昔から知っている田中丸治廣氏のお話を書き残しておきましょう。田中丸治廣の功績は今からが佳境に入っていくのですが、読者からご質問もあり、少しわき道にそれますが私的な話としてお聞きください。また読者の疑問に「記述ではすごく有名な感じだが今まで書籍に登場していない」という、もっともな話も頂いています。少しですが田中丸治廣の貴重な記事も公開いたします。

思い出せば私が幼稚園に入るころ、治廣氏は私の父の工場に来られていたことはおぼえています。後年私が中学校の頃、父から聞かされた話に「田中丸さんが板付米軍基地の将校にボートを作ったことや父の旧制中学時代の友人井上R氏との仲介で貿易会社がとにかく早い船を作ってくれという話を田中丸氏に伝える。時代は朝鮮戦争が終わったころで、田中丸氏は十分自信があるが日本ではエンジンが 手に入らないということで、父が米軍にかけあって中古のクライスラーエンジンを入手、水冷エンジンの空冷式ラジエターを水冷式海水冷却方式に改造して船が完成。ところが博多湾で試運転の途中で水上警察から追いかけられ、挙句「水上署の監視艇より早い船の製造はやめてほしい。」というお灸を請けたそうです。

さて、九州航空会では大きな進展が起きていました。佐藤博の先を見つめる視線と、前田建一の先を見ている視線は必然的に交差し、互いの思想と技量が表に出てきます。さて田中丸治廣はどのような行動に出るのでしょうか。

昭和も18年となります。戦局は勢いに乗り帝国日本も一段と理化学物理工学に力を注ぐことを考え国立大学により一層の課題や特権も与えます。まず航空技術のさらなく進歩に向けて東京帝国大学を始め東北帝国大学、名古屋帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学、東京工業大学、旅順工科大学、横浜高校、浜松高等工業、名古屋高等工業にを特別な位置づけに置きます。九州帝国大学は滑空研究所というお墨付きの看板が与えられるのです。研究所所長は工学部のトップの宮崎教授が座り実際に研究所を動かしていくのは副所長佐藤博が担います。実はここに黒子として佐藤の横に座する田中丸治廣の姿は大切な役割を与えています。滑空機をデザインし、製作し飛んでテストできたのは九州帝国大学しかできなかったのです。それが田中丸治廣の隠れた実力があっての功績と思われます。

ここを短文ですが明確に書き記されたのが朝日新聞航空朝日の編集長齋藤寅朗がいます。

        上記 昭和18年版第4巻1号朝日新聞・月刊誌航空朝日表紙。

上記 本誌154Pから159Pにかけて記載される「全国航空学府の展望」という特集に書かれる九州帝国大学編をご紹介します。

上記 本誌159Pの九州帝国大学航空工学教室の紹介欄です。青囲みに田中丸治廣の記事が載っています。下記に拡大して記載いたします。実は田中丸治廣を描いた書籍では唯一見つけ出した記事がこれなんです。短文です、詳細は書かれていまからこのホームページでその姿に迫ってみたいのです。

更新 2024年7月7日

九州航空会の1号機は無事に試験飛行も終わる。実際はこの仕上がりまでに大きな動きが二人に起きていた。二人とは佐藤博であり前田建一である。何がおきていたのか。二人とも研究熱心、情熱家、寝食忘れての1号機設計と製作だ。ダラダラと進行したのではない。

まず佐藤博助教授は考えた。ドイツを手本にして作っては見たが、これじゃすぐ壊れるのではないか。大学の滑空機製作は「滑空の研究」や「操縦者の安全確保」が必要だ。操縦者がむき出しはあまりにも危険ではないか。我が日本に向いた機体を考えるべきではないか。

片や前田建一は考えた。できた機体は簡単だが、作るのに手間がかかりすぎる。期間がかかることは金もかかる。商売対象にするには見栄えも必要だし、無駄な手間ははぶきたい。

二人はこの様なことを頭に浮かべながらの1号機であった。

実はここに田中丸治廣が事あるごとに「提案」を出してきたことがのちの自身の立ち位置を決めることにつながるのであった。

まず佐藤博は1号機が完成する前・・つまり1号機の設計が半分終わり部分製作にかかっていたころにすでに大学の製図図面台に2~3歩先を行く滑空機を描いていた。これがのちの九帝3型となっていく。

さて前田建一は佐藤博に提案する「佐藤先生、素人が飛んだり学生さんが研究で飛ぶのだからすぐ壊れますバイ、予備の機体をすぐ作りまっしょうヤ」。佐藤博は快諾し大方を前田に託す。前田は予算のことも有るので、仕上がった1号機でつくっておいた製作に必要な組み立て治具などの再利用で時間と予算の軽減を図った。2号機の図面は1号機とほとんど同じ採寸だが機体の端末部にすべて丸みを持たせる曲線としてみたのである.

当時の田中丸はその考案力、作図の正確さ、加工製作の確実さ、学生を手ほどきする指導力のながれ・・横で見ていた佐藤博は「何とか九大に引き抜きたい」という目で治廣を見つめることが多かった。ある日佐藤博は九州航空会の仲間に問うてみた。

「ところで皆さん、いま作図している3番目の機体は1号機より二回りほどおおきくなるのだが・・」。

現在早急に取り掛かった2号機の準備が始まった時の3号機の説明に一同同じ考えがあった。「ここではとても無理です」。前田建一の頭には工作の場所の問題より、自分の考えで作っていける2号機への情熱で一杯であった。常に冷静な田中丸は佐藤博から直々に教わる滑空機の強度計算の取り組みや作図の仕様、その他卓上の必要作業の習得に追われていく。

好きな道の難問は、治廣にとっては楽しみと変わっていく。いつしか九州帝国大学造船科の学生が田中丸に教えを乞う場面を眼にした佐藤博は細い眼をさらに細くして見つめていたのである。

更新 2024年7月15日

九州航空会は一気に忙しくなってきた。佐藤前田式1号機、つまり九州航空会の1号機が

完成に向かう前に、佐藤博は1号機に船をかぶせる中級機、セコンダーの設計を終わっていたのちの九帝3型十文字号である。片や前田建一は1号機から学んだ改良点を模索し、1号機を基本として前田建一なりの2号機を佐藤博の指示に沿って設計始め、のちの佐藤前田式2号機である。当然初級機プライマリーである。翼に和紙を張るという快挙に出てきた。

 実は九州航空会の製作機体は製作順序と型式公開の順序に難しいところがあるがそれは別の欄で書くことにしたい。

さてこの項の主人公である田中丸治廣は当時いかなる生活を送っていたのであろうか。とても気になるものがある。本職は博多玉屋の正式社員でハードな部門を一手にこなすエンジニアであった。特に玉屋は超近代化を推進し、広告には市民が驚くような点滅電飾看板などの制作を企画し、その実現に向けて、金属加工の仕事も増えており田中丸治廣がその窓口となって金工金物屋と接触を行っている。当時は退社後や休日はすべて九州航空会に時間を提供している。さて滑空機の製作で、木工の技術を惜しみなく出していた治廣に大きな課題が出された、というより仲間が手も足も出なかった「金工」のところで行き詰るとき、チョイと口出した治廣に「丸さん、よかったら溶接もやってもらえないかな」というマエケン(前田建一)の要請で、金工のすべてを治廣が受けることになった。これはのちに九帝型滑空機、前田航研工業が軍需産業に入った時九大から出向で前田工場に金工指導に足を運んだ実績でその腕の確かさが見えてくる。

 滑空機工作ではこの金属加工の重要性は絶対なものがある。そこには金属を固定したり、取り付ける被写体がすべて木部という絶対条件が控える。つまり、木工と金工の両方の技量がその効果を発揮できるのである。当然そこを見据えての金具製図が求められることになる。マエケンは治廣に金工を頼み、佐藤博はそこに金具製図のノウハウを伝える。自然と滑空機に必要な金具製作の全技能が田中丸治廣の頭と腕に蓄積されていくのであった。

戦後の昭和28年田中丸が手を出さなかった前田航研制作の「SM式206舞鶴号複座滑空機」でテストパイロット河辺忠夫、同乗河辺忠重がデモ飛行で死の渕に追い込まれる事件が起きた。このアクシデントはのち「SM206」の欄で書きますが原因は戦後の前田航研に金属加工の熟練者がいなかったことが原因でした。このテスト飛行兼デモンストレーションは最初田中丸治廣が乗るはずでした。今では笑い話で終わるのですがとても笑えない事故でした。

治廣は九州帝国大学九州帝国航空会で学生に「滑空機の作り方」というマニュアル書を手書きですが作成しています。その中に金工のページがあります。その一部を探せたとき、田中丸治廣という人物の大きさというか、後輩に何をどのようにして伝え残すのか、その手法は値千金である。静止画でありながら動的描き方は、大学教授では書けない絵図方式である。これは後日貼ってみたい。

佐藤前田式2号機 志鶴忠夫、前田建一、佐藤博の顔が見える。この2号機の金具製作はすべて田中丸治廣が行ったと聞かされている。この佐藤前田式2号機の3か月前に仕上がった佐藤式練習2号機、つまりここで初めて九州帝国大学式や九州帝国大学航空会式2号機、であり九帝3型という機体の金具も田中丸治廣が九州大学に出向いて学生に手取足取りで平板の曲げ方や、溶接、銀ろう付けを教えていた。

更新 2024年8月4日

佐藤・前田式1型も完成し、試験飛行も順調に進んでいる。同時進行してきた通称九帝3型の製作も九大航空会で始まり、その進行の中で重宝がられる田中丸治廣は、人一倍の苦労がのしかかっていた。九州航空会では作る、作り方を指導する、デパートの電気開発部の大きな仕事も抱えている。それは頭脳疲労や体力疲労で細い体ますます細くなっていく。玉屋デパートから九州航空会は帰路の途中にあり、夜間の作業もうまくこなせていたが、1号機の組み立てが箱崎の九州帝国大学となり、3型が製作から組み立ても箱崎となると、田中丸の自宅と玉屋、箱崎通勤がかなり重荷となっていた。大きな三角形の道筋の通勤経路である。佐藤は遠くから眺めていたが、ここは何とかしてあげたいという気持ちが働いていた。そこは「田中丸治廣さんは逃がしたくない」という感情も強く働いていた。

ある日佐藤博は何気なく言う「田中丸さん、何というか、滑空機のパイロットに向いているような体格ですね、一度は乗ってみてください」と。田中丸は「作ることは絶対に負けない」という自負と、鍋島藩に伝わる葉隠れの伝承あるように「人の前に立つべからず」と言う教えが立ちはだかり、「飛ぶ役目は志鶴さんの立場」ということに一線をひいてきたが、「もし、飛べるのであれば飛んでみたい」という、初めて己の心に自由な発想が芽を吹いたところであった。

さて、佐藤・前田1号機を二回り大きく設計し、操縦席を船で囲む、独特のスタイルである3型セコンダリーはドイツの1920年後半に作られた型式を参考に佐藤博が図面を引き、九州帝国大学の中で作っていく。1号機とは全く異なる作り方を田中丸は。粛々とこなしていった。

昭和6年6月に前田建一主宰の九州航空会の門をたたき、佐藤博助教授や九州帝国大学の学生、志鶴忠夫航空士と肩を並べ、そのまま九州帝国大学航空会が昭和7年1月に発足し両方の会で腕を振ることになり、昭和7年3月に佐藤前田式1号機が完成し、同時進行の九帝3型セコンダリーは同年7月の末に仕上がっている。ここからは早速滑空という実践教育に向かうのであった。

写真説明―上から方向だのリブ組。左翼端のリブ様。水平尾翼と昇降舵のリブ。主翼の前縁を下にしたリブ視。完成後の滑空状態の3型、完成後というところは主翼端下部に籐のスキッドが装備されていることから判断。

更新 2024年8月30日 「活躍始まる田中丸治廣編」

田中丸治廣の世界で、前置きが長かったと思うが、これも彼を理解して頂くためにあえて時間をたっぷり頂いた。さて、ここからが田中丸治廣の活躍にはいっていく。この頃からは事実を検証できる写真も沢山残されているが治廣は九州帝国大学という世界だけで活躍していないので写真も多岐にわたる。つまり、佐藤博九州帝国大学助教授は田中丸に「他流試合」のような指示を出している。佐藤博先生のその心は理解できる私がいる。

つまり、九州帝国大学航空会で滑空機製作を教えていくにはまず、前田建一の技法や作業の在り方を熟知させるという荒業な指示を出しているのである。佐藤博の指導はすべての垣根を取っ払った手法であった。これが末永く「佐藤さん」という世界を維持できたのではなかろうか。

では他流試合で、学習しながら、のちはその拠点の指導者となっていった田中丸治廣の世界に迫ってみよう。イヤー、多くの資料をめくっていくと九州帝国大学大学航空会も九州帝国大学滑空研究所もすべの機体を完成に導いたのは彼‥つまり・・田中丸・・・・治廣一人が背負い、頭と指先で行ってきたことに驚愕するのである。つまり佐藤博先生は「田中丸治廣ありて佐藤博あり」であったと思ってもいいのではないか。滑空士志鶴忠夫は途中から中央に引き抜かれ、その穴埋めも治廣がしっかり担っているのである。この項では余談になるが戦後の前田式SM206複座ソアラーの試験飛行の時、前田建一は河辺忠夫にその試験飛行を頼むが、河辺は「自分が乗れない時は田中丸氏に依頼しているので安心あれ」というハガキも見つかっている。田中丸治廣は戦後も滑空機のオーソリテーであったのだ。のち朝日新聞社発注の朝日航空学連の練習機を九州大学に依頼し、佐藤博教授は「阿蘇G」の製作を田中丸治廣にゆだねるが、のち詳しく書いてみたい。          

さて、九州大学航空会は佐藤前田式1号機の完成と試験飛行も無事終わり、大学裏の広場でのジャンプ飛行や香椎浜埋め立て場での飛行も回を重ね、同時進行の佐藤式2号機セコンダリー機九帝3型の組み立ても終わる。

                      

写真上。佐藤前田式1号機が組み立てられ、大学内で展示の時ですが昭和7年の写真はさすがに劣化ひどい。

写真上。田中丸治廣アルバムより公開。校舎裏の広場です、ここでジャンプ飛行の練習を行っています。アルバムには写真説明書きがあり「空への初陣」と見えます。写真左より2人目に田中丸治廣、4人目に前田建一九州航空会主宰。後列左背が高い志鶴忠夫、ひとりおいてその左に佐藤博樹教授が見える。

写真上。佐藤前田式1号機とか佐藤前田式練習1号機や時として九帝1とも書かれることがある。しかし正式は佐藤前田式1号機と思う。この時期製作場所やかかわった人員を見ると主に民間が主催と見えるので大学側が一歩引いていた。やはり「九州帝国大学、つまり九帝」という冠は付けがたいものを感じるのである。写真は非常に貴重なもの。この1号機のパーツ写真が全くでてこなかった。今回この2枚を1号機と確定するにはかなりエネルギーを使った。

写真上。この写真には昭和7年の現福岡市博多区名島の「名島大橋」を東から西に向かう一行の場面がある。つまり香椎浜埋め立て浜から箱崎の九州帝国大学に戻る九大航空会の一行の写真である。特に写真下に映る大橋のモニュメントが今も健在であることが嬉しかった。リヤカーでの運搬であったのか。

写真上。チョット息抜きを。現在の名島大橋です。戦記や博多歴史に詳しい方はお分かりと思いますが、なぜこの名島大橋が福岡大空襲で爆撃に逢ってないのか。近くに席田飛行場のち板付エアベース、のちの福岡国際空港があり、当時は福岡第一飛行場が和白にに、のち雁ノ巣飛行場。ここまで大型飛行場があるのに爆撃が無かった名島大橋?ここのインフラが破壊されると物資輸送で飛行場の役目がとまるのに爆撃が無かった。その理由は誰もどこにも書かないし見ることもないままでしたが、ここで少し書いておきますね。名島大橋の全体図写真の右端の上になるところに松林がありました。かなり広い林です。実はここに帝国陸軍が米国捕虜収容所を作っておりまして、上空からその様子がみえないくらい松が茂っておりました。米軍はこの橋をぶっ飛ばしたかったのですが、捕虜収容所あまりにもちかいので、空爆誤差を考えると躊躇したのでしょう。昭和20年8月20日頃には米軍の大型機が飛来し中型パラシュートをこの一帯に投下しました。それは捕虜収容所の米軍人にたばこ、菓子、薬品などを投下。当然近くの子供たちが多くを拾っています。名島大橋よもやま話でした。

このような広さでは充分な研究飛行ができないので2機合同滑空研究をどこの地で行うかのエリア決定が佐藤と志鶴にかかってくる。佐藤から声がかかった田中丸を含め、九州航空会も前田建一や九州帝国大学航空会の学生諸子と地図を見ながら状況を集約。東は鳥取砂丘、西は雲仙、諫早、佐賀平野、南に久住阿蘇と情報収集も回を重ね、最終は佐藤と志鶴が大分県別府の西に広がる十文字ヶ原の丘陵にポイントを置く。

写真上より。現在の十文字ヶ原の一部。当地祇は滑空に入る1号機の勇姿。1号機はここの実験滑空で壊れてしまうのであった。次、この写真では何とも言えない掘立小屋に3型が収納?遠くに1号機が見える。下段は草原で翼を休める2機の兄弟機。

地形的条件、海風の条件、山岳ではなく丘陵の風、運搬交通などから見て、十分自信を持った場所であった。思わぬ協力者も現れて、すべてが順調に進んでいくのであった。   

今回、この十文字ヶ原研究滑走会の写真に田中丸治廣の姿をみいだせなかった。同行したかできなかったのか?多分ではあるがこの時期はまだ博多玉屋デパートの社員であり、個人での長期休暇は出来なかったのではないかと思われる。しかし佐藤博とすれば佐藤式2号機九帝3型を知り尽くした田中丸治廣の不参加は痛手でもあり、なんとかして田中丸を手元に寄せる手段は無いのかも考えていたはずだ。

写真上。十文字の参加者ですが学生が見えない、田中丸が見えない。前列左に志鶴忠夫、右となりに佐藤博助教授。九州帝国大学と九州航空会合同の滑空研究会はこの十文字ヶ原の滑空で大きな成果を残すのである。そこには突然できた九帝3型の滑空時間「日本記録」というお土産ができた。また1号機の破損が更なる開発につながっていき、合同滑空研究会は一気に成長の路線に乗っていくのである。細い糸であるが2機を手掛けた聡明な男は、己に降りてくる重責な話が始まるなど考えもなく、ひたすら滑空機製作のお手伝いと博多名店玉屋百貨店の社員として今日も手弁当でチンチン電車に揺られながら「研究会は十文字で飛んでるんだろうなー」と思いながら、軽い足取りで玉屋の階段を上っていくのであった。

更新 2024年9月15日

さてさて、ここにきて「田中丸治廣の世界」が大きな問題に直面します。九帝3型のちに「十文字号」が完成と同時に、九帝5型の計画が始まります。田中丸治廣は玉屋デパートに勤務しながらの九帝3型製作参加という形でした。佐藤先生の新型滑空機製作の攻め方はスマートで、難問を熟知してからのとりかかりですから、スタートしたら進行が速いのです。

そこにきて学生に手取足取りで工作を指導するには佐藤先生には時間がありません。九帝5型を前にして「この新型を作るには学生の手と指導者の確保」が急務となりました。5型開発のいきさつや流れは佐藤博先生の「おはこ談義」で、幾度もお聞きしてきましたので、空で書けるのですが、どっこい参考になる「九帝5型、7型」の製作段階に関する写真がでてこないのです。佐藤博史資料に残された写真の中にこの2機種の「製作記録写真」が残っていないのです。完成後の久住や阿蘇の滑空実験の写真は見ることができます。間違いなく散逸の現状を強く感じる今があります。これはなんとしたことか。           

実は九帝5型の主翼リブ制作には世界に誇れる工夫があって、その考案者は前田建一。前田建一考案を佐藤博助教授が採用したことになっていますが極一部の関係者にしか伝承されなかった逸話です。その証拠の写真がでてこないのです。製作経緯は「山岳滑空で強風に耐える主翼リブ強度と軽量化の加工工夫」を模索するときに前田建一が発揮した主翼リブの工作方法なのです。問題は特殊加工器具が必要でした。

河辺は戦後昭和34年頃でしたか前田航研元岡(北原)工場でこの製作の類似翼を見つけた時、父河辺忠夫が「見てごらん前田さんの工夫は当時の日本職人から並外れの工作技術があったんだよ、これは佐藤先生や九大から丸さんが引き継いでヨットの竜骨にも使ったんだ。」(丸さん、とは田中丸治廣の愛称)

翼型に関しては佐藤博先生が決めたと思いますが、翼型製作に関して前田建一試行が大きく係わっていたようです。前田建一が考案し、それを実用化するには金属加工が得意であった田中丸治廣の腕が必要であった。                    

九帝5型がひのき舞台に上がる、昭和10年の盾津飛行場や生駒山からの滑空に佐藤博先生が前田建一を現場指導者に置いたことがすべてを語っています。(当時佐藤先生は健康不良で病床)。機体の隅々まで知り尽くした前田建一にすべて一任された佐藤先生がおられました。

田中丸治廣を語る中で生涯活動が始まる九帝5型製作が治廣の大きな転換期となっていくのに証拠の写真が皆無とは残念です。治廣の履歴書を参考にしていくとこの5型開発のために博多玉屋を退職したことが明確に読み取れます。玉屋百貨店勤務は安定した収入やその技術を買われ重宝される大事な職場でありながら、九帝5型開発がかぶっています。大阪以西で初めてのビル屋上の大型電飾看板も成功裏に立て「博多玉屋に田中丸治廣なる技術職人あり」とまで言われていたのだが裏では九州帝国大学航空会からも声がかかるという所であった。履歴書には短く「昭和〇年〇月、玉屋退職」と書かれる文字には希望や情熱や、同郷の佐賀田中丸社長が自分を雇用してくれた玉屋への気持ちが読み取れるのです。

今回は滑空機から離れ、「博多玉屋百貨店の写真」の貴重な写真を貼って見ましょう。今回何度が記述しました「屋上の電飾看板」を確認できます。このような面積がある塔は耐風圧計算も面倒であったはずですがそこが得意な丸さんがいました。

更新 2024年10月20日

田中丸治廣が関与する、九帝3型製作後の試験飛行や十文字ヶ原の滑空研究会の資料が全くでてこない。しかしもとに戻って九州航空会と九州帝国大学航空会で開発し、田中丸治廣が滑空界に入っていく糸口になった「佐藤前田式1号機」に関するところでの田中丸治廣の実態がやっと目にできた。確かに九州航空会への入会は少し遅れて入ったが、滑空練習の流れが一つの一覧表になっていくとその腕前が、つまり工作から入った滑空界で飛ぶことの腕前が昇っていくさまが見て取れる。話は飛躍するが昭和14年頃の田中丸治廣の滑空記録を見ると、毎回の研究飛行や練習飛行の初発に「田中丸治廣・試飛行」という見出しからその日の活動が始まっていた。つまり田中丸が朝いちばんに乗ってとんで、機体と気象の確認を行っている。これを見れば彼の立ち位置がはっきりしてくる。今回は九州帝国大学航空界の資料から昭和7年5月から始まる佐藤目だ1号機の練習効果の実績表の一部で関係者の分を公開してみよう。各滑空者の名前は右上に記載がある。これは田中丸治廣が公に名前が出てきた初発であろう。

更新 2024年10月29日

滑空ノートには前田建一や志鶴忠夫の記録も残っています。さすが志鶴は滑空回数も多く見えます。このころの田中丸治廣は飛ぶことよりも、クラッシュが続く練習1号機の修復に追われます。前田建一は「これだけ壊されるともう一機持っておかないと練習に穴が開く」と先読みに入ります。佐藤博助教授は「初めての練習機でこれだけ美しい滑空ができるのであればかなり高度な機体をつくる方が研究につながる」ということですでに九州帝国大学ではひとクラス上のセコンダリー機の設計に入っていた。とにかく刃物や工具を持ったことがない学生に工作を教えていくには、毎日手取り足取りの第1期滑空工作見習い学生を育成するために、九州航空会と二人三脚の中で、どのように進めるべきかという葛藤があったらしい。写真は前田建一、志鶴忠夫の滑空記録。