「福岡飛行訓練所」通称元岡飛行場の思い出。
福岡市西区の久保幸男様(88歳・2024年時)当時初等科4年生
往年のグライダーマンのコーナーでは、いろいろなジャンルの方にご登場いただくことになります。協会の主旨はどこかの時点で必ず滑空機との接触をお持ちの方にご登場いただくところです。
取材 2024年4月14日日曜午前10時より、福岡市西区(旧糸島郡)にて久保幸男様(89歳)からの思い出として通称元岡飛行場(福岡飛行訓練所)のお話を頂きました。取材の会場は久保様のご自宅、同席は仲介の労を頂きました理学療法士中村昌登様、久保幸男様ご家内さま、日本滑空史保存協会2名の計5名が参集。久保幸男さまは地域の重鎮としてご活躍されてきました。いうなれば地域の百科事典とでも申しましょうか。今回の取材で当協会が長年解決できなかった疑問が、久保さまのご記憶でいとも簡単に解決できたことなど奇蹟に近いものを感じた1時間の時の流れでした。今回の元岡飛行場というところが九州帝国大学の滑空機常駐のところでもあり多くの滑空機の試験飛行もおこなっており、当時を知る方が皆無の中で突然ですが中村昌登様とのご縁で取材となったところです。久保幸男さまはリラックスされる体勢でお待ちになっておられました。
そのご配慮に感謝して、早速対談形式で始まる。以下の書き込みは取材録音のテープお越しをしながら本部河辺が皆さんにご理解ができるようにところどころに注釈脚本があることを事前にお伝えするところである。
「久保さま今日は当協会の取材をお受けいただき感謝申し上げます」久保さまは肌の血色もよく、お顔の御様子もお元気です。こちらからの質問に一呼吸の間は出るのだが的確にお答えがいただける。後期ご高齢でもあり無理なく進めることにする。
写真左・河辺。中央・久保幸男様。右理学療法士中村昌登様
河辺 早速元岡飛行場に関してお尋ねがあります。この飛行場には滑走路が無かったと聞いてきましたが・・・。
久保翁 全部が草原と言うか背丈の短い雑草の湿地帯でしたね。
このようにして始まった昭和19年から20年頃の思い出のお話です。久保さまが旧制初等
科4年生の時代ですから10歳ごろと思います。
久保翁 飛行場と自宅が近かったのです。
河辺 近い?今お邪魔していますここが当時からのご自宅でしょうか。
久保翁 生まれも、育ちも・・・老いてもここです。ずーっとここから離れたことがありません。
河辺 元岡飛行場が自宅から近いとお話されますが、今考えるとかなりの距離があるのですが。(直線距離で3キロほどあります。)
久保翁 笑いをこらえて、昔はね、何もない広っぱですよ、すぐそばに見えるのです。
友達と連れ添って飛行場の隅で遊んでしました。大きな格納庫が3棟立っていましたね。
ここで河辺が昭和20年に米軍が撮影した航空写真をお見せして、その格納庫を確認します。
同時に持参する九州帝国大学航空会、滑空研究所の技官田中丸治廣作成の「九帝11型一号
機B-2800の試験飛行」(田中丸治廣ご遺族様から拝借中)アルバムをお見せすると、一段と
目が輝き「そうそう、これがよく飛んでいた」と言って写真に写っていた複葉単発の滑空機
曳航に使っていた機体をなでながら、懐かしんでありました。
元岡飛行場は九州福岡市の西の端にありました。当時は福岡県糸島郡元岡村。福岡第一飛場
通称雁の巣飛行場と席田飛行場現福岡国際空港を三角で結べる立地。海抜1Mしかない傾
傾斜もなくまさしく飛行場にうってつけの広大な田畑でした。
上記航空写真の拡大です。赤の矢印がスッポンの養殖場、以前はここが滑走路と勘違い。
青の矢印が元岡の格納庫3棟、はっきり見えます。オレンジの矢印は前田航研工業。
久保翁 この格納庫が終戦後に学校に再利用となってね。とにかく頑丈に作ってあったし
中は柱もなくただただ広いだけで、それは利用価値がありました。
此れも突然のお話です、たぶん思いをはせめぐらせてあるので、「突然の思い出し」が起きてくるのでしょうね。
久保翁 「河邉さんでしたね、これは是非書き記しておいてください、実はこの元岡飛行場は私たち地域の青少年の希望と夢の飛行場でした、まず軍人はおりません、すべて学生さんです、その若さで航空機を操縦され、航空機で滑空機を引っ張って飛ぶなど、夢の世界でした。お判りでしょう、空にあこがれる田舎の子供にとってどれほどの夢の場所であったか。しかしそれが一瞬で消えていったのもまた事実なのです。敗戦ということで学生さんたちは全く姿を見せません、3棟の格納庫内の品物もすぐ処分されたと聞いています。ここまではまだ衝撃は無かったのです。しかし米軍が乗り込んできます。ブルトーザーが入ってきます。格納庫3棟に入っていた航空機が全部外にだされ、ブルトーザーで一気に押されていくのです。少し前までは若人が手に取って磨くように扱っていた航空機がごみの様に山積みされるので子供の目には恐怖となっていました。
飛行場の隅に集められた機体がどうなるのか、我々のような地域の人間や、飛行場の責任者みたいな方が多く取り巻く中で米兵は山積みの機体に缶から液体を撒きます、これはガソリンという物ですね。「ワー、燃やすのだ」とわかった時はショックと恐怖でした。
驚いたのはマッチかライターで火をつけたのではありません。米兵は腰のホルダーから拳銃を抜くと、積みあがった航空機に向かって「パン」と、銃弾を撃ち込んだのですよ。
一気に燃え上がる機体。私たち悪ガキの夢がガラガラと崩れ落ちる音を頭の中で聞きました。元岡飛行場の歴史はここで終わってしまいました。そして今日の今があるのです。初めてこのようなお話をしましたがお役に立つのでしょうか。
(同時期、元岡を基地としていた九州帝国大学はGHQの指示により大学が保管していた機体他図面や工具までを校庭に積み上げ消去しています。)
後の調査で、格納庫内床は全面コンクリート。飛行場の立地がただただ広い中にあったので台風の風も強く、格納庫の外側は斜めのつっかい柱が立っており、「ツッパリ校舎」と呼ばれた話が残っていた。
話しはいろいろ出てきましたが、航空写真でどうしても解釈できない部所があり、久保さまにお尋ねします。
河辺 ところでこの赤丸の長い整地されるところはなにがあったのでしょうか?
久保さまが間髪入れず「これはね、スッポンの養殖場です」と。見た目滑走路みたいな形状があり不思議でなりませんでした。食糧難時代の事ですからいろいろ対策があったのでしょう。このようにして飛行場の外堀を思い出していただくときその名前が突然でてきました。「そうだ、近くに前田航研という航空機の製作工場があったよ」と。
協会はこの前田航研情報はかなり持っているのですが、どうしてもわからないことが一つあったのです。この前田航研の話は多くの書きものに出てきますが、この元岡飛行場に隣接する工場だけが取り上げられており、実は別の場所にもっと大きな工場があったことがまったく話として出てこないのです。河辺はここが今回最大の面談のクライマックスと思い、一気に前田航研第二工場の話に持ち込んでみます。
「久保さまにお尋ねしますが前田航研が千里というところで工場を持っていたはずなんです」と。ここが最大のポイントになるところでした。
久保さまは簡単に「ああ、千里の前田ネ、我が家のすぐ近くですよ」。神ヨ、なんという御引き合わせでしょうか。千里が目の前に出てきたではありませんか。幻の千里工場。
残念なことは工場内の事は久保さまのお話では出ませんでした。もう1件「木製の小さなバス」が糸島のわき道を走っていたこともご存じでしたが詳細は出ませんでした。
この前田第二工場と木製バス(前田航研制作)は、別途の項目「前田航研工業」でご案内致します。短い取材時間でしたが長い間モンモンとしていたことが解決できた貴重な取材となりました。後日九州帝国大学「田中丸治廣の世界」及び「前田航研工業」の項目で久保様から頂きましたお話が再現します。河辺記。航空写真は撮影昭和20年米国による撮影、管理建設省国土地理院アーカイブ提供。
最後に皆様と記念撮影