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 松本陽一

投稿第1回目。

             面メーター

 私は昭和3年生まれ、旧制中学時代は昭和16年に鳥取県立第二中学校入学し、昭和17年春に父の転勤で鳥取県立倉吉中学校に転向、昭和18年秋学徒動員で日本曹達株式会社米子製鋼所で働く。昭和19年に4年で中学校卒業。当時の中学校は現在の義務教育の3年生ではなく5学年まであって、戦争中なので4年に短縮されて上級の高等学校や専門学校に受験ができた。昭和20年1月茨木県石岡にあった滑空工業専門学校を受験、不合格。浜松高等工業専門学校航空部を受験、合格。昭和20年4月より終戦8月まで愛知県大府市に疎開していた三菱重工業第五工場に学徒動員された。昭和6年9月に満州事変、昭和12年7月に支那事変、昭和16年12月に太平洋戦争と戦争が続いたので私の成長期は戦中派ともいえる。

 昭和15年、私が小学校5年生の時、皇紀2600年のお祝いとして1等滑空士清水六之助さん操縦のソアラーオリンピアマイゼ号が日本一周して鳥取聯隊の練兵場にやってきた。しないから4キロメートルも離れているが、学校の先生に引率されて見学に行った。

マイゼ号は飛行機に曳航されて上空にきて、曳航索を離して宙返りし兵舎の屋根をかすめて着陸し、見学席の前に停止した。もともと飛行機が大好きな私でしたが、グライダーが大好きになったのは当然です。

清水六之助滑空士が国内一周に使った独逸製オリンピアマイゼ。           A-1031「航空時代より」採用。

鳥取県立鳥取第二中学校を受験したのは県内唯一、部活にグライダーがあったからである。入学直後早急にグライダー部に入部した。一緒に入部した一年生は私を含めて5名であった。グライダーは部室にはなく6キロメートル離れた鳥取砂丘の格納庫にあるという。部担当の先生は物理担当の永見先生であった。部員は私たち1年生を含めて20名くらいであった。

部活動は土、日曜日に砂丘にでかけてすることになりますが、夏休みは登校日以外は砂丘に行きました。初めの2か月ぐらいはグライダーに乗ることはなく先輩の滑空訓練を見学、ゴム索を14名くらいで二手にわかれてV字型に引っ張ってグライダーを発信させるのである。上級生の場合は「科目高度10メートル直線滑空」と教官に大声で報告し、教官は生徒に滑空についての指示を与え、、ゴム索発進かかりにゴム索進展の指示を出すのである。ゴム索かかりは25歩ほど引いて駆け足となり30数歩になると進まなくなる。尾部の滑空機索止めの係り員に「放て」と命令し発進させるのである。

(説明)写真はプライマリー機体の尾部の止め索の状態を見る。右端が拙者である。本来索は打ち込まれた木杭に回し、片方を握って止めるのであるが写真は、活動休憩中で風にあおられないように鉄杭に仮止めした様子である。砂丘にて。

教官の「放て(離せ)」の号令で滑空機はビューっと音を残して舞い上がる。機体を持ち上げたゴム索は高度10メートルほどで機体から離脱。こ時の状態が一番大事なところである。操縦者がこのままなにもせずに飛んでいくと機体速度が落ち、失速・・・墜落となる。ゴム索離脱の時に間髪入れず、操縦桿で軽くした向きの当て舵を入れてあげ、機体が滑空角度まで機種が下がると、機種上げの操作に移り滑空角の姿勢を保持するのである。感がいいものはきれいな滑空を見せるが、中には下げ舵上げ舵を何度も繰り返す上下蛇行の仲間もいて楽しいものであった。

写真説明 鳥取二中の1学年時代。鳥取砂丘にて

休憩時間にはグライダーが空いているので、座席に15キロほどの砂袋をのせその上に跨って座り、浜風を利用して左右の傾きを修正する練習で操縦桿を使ってエルロンを動かし風の効き具合の練習も行った。初めのころは見学ばかりであったがそろそろ慣れてくると丘の上から滑空してきた機体を再度丘に運ぶ重労働が待っていた。砂上では機体が砂に埋もれるので幅広い車輪に乗せて移動するのであった。うまく滑空した時の機体は500メートルほど飛んでいくので、元に戻す苦労は大変であった。そんな重労働も「いつか乗れる」という希望があったから苦にもならず頑張っていた。夏休みになると毎日天気が良ければ部活の砂丘行が続く。朝から活動開始だから一年生にもグライダーに乗る機会が与えられる。座席に15キログラムの砂袋を積みその上に乗り最初は科目地上滑空でまだ飛び上がることはできない。ズルズルと地上を滑って前に出るくらいのことが精いっぱいであった。教官から感想を聞かれても自分がどうなったのかが言葉で言えず満足な返事もできなかった。

地上滑走の次がジャンプである。最初は50センチのジャンプから始まり高さが1メートル、2メートルと進んでいく。ジャンプの時は操縦桿を少しだが前に押し置いて、ゴム索が機体から離脱しても当て舵のダウンを入れなくても機種が下がって滑空角度になるようにしておくがすぐ接地となるので着陸の操舵はしない。地面が砂地だからショックが少ない。何度もジャンプを繰り返し少しづつ高度を上げ着陸操舵の操作もできるようになっていく。ジャンプ滑空で高度が1メートルに下がってきた時、わずかに上げ舵をとって機体が水平滑空を保つことができると訓練も楽しくなってくる。

ここまで進むと教官が口癖のように諭すことが出るのである「プライマリーには速度計がついていないツラメーターを活用すべし」と。顔に当たる風の強さ、機体に張られる張線、降着張線、タンパーックルのスリットから発する空気の振動音を耳で聞いてこれで機体の速度を予想することの大切さを教えてくれるのであった。機体が風を切る音がしない時は失速の兆候だから注意の事、と教えてくれた。すべてが五感で飛んでいたような時代である。

この年の12月8日にの大東亜戦争が開戦するのである。よく17年父が倉吉市に転勤となり自分も鳥取県立倉吉中学校に転校した。残念なことにここは滑空部が無かった。昭和18年朝日新聞社が全国の男子中学校や滑空機を持っていない学校にグライダーを寄贈してくれた。機体は朝日式駒鳥号であった。早速部活で滑空部を創設し、部員を募ったら15名が集まった。茨木県石岡市から塚本教官をお呼びし滑空部以外の生徒にも教練の時間に滑空訓練を教えることになった。当時は戦時であったので陸軍の配属将校が中学校に配属されており毎週1時間軍隊教育を行っていた。

写真説明 倉吉中学校滑空部3年時代。機体は朝日式駒鳥号、前列右が松本。

私は1年生の時鳥取二中で一年間グライダー活動を行い搭乗回数70回ほど乗っていた。経験豊富ということで部員の先頭に立って頑張った。部員がゴム索をもって引っ張ってくれる頭上5メートル上空を滑空してきました。現代の若いグライダーマンはプライマリーの経験がなくいきなり複座のソアラーに乗って教官から指導受けるので「面メータ」の必要はありません。私の若いころの思い出の一つです。当時の若人で滑空機にあこがれた皆様が同じ経験を積んでこられたのです。

当時の日本の空も今の空も、空は変わりなく皆様を待っています。

私とグライダー   第2回投稿

 松本 陽一

 私は昭和3年鳥取県米子市の生まれで、幼時は中海を臨む錦公園の近くに住み、まだ昭和初期珍しかった遊覧飛行機(複葉水上機)が、毎日大山方面に飛びたち、また着水するのを飽きもせず見て育った。むき出しの星型エンジンのタペットの動く様子に興味を持ち、プロベラを回す爆音を聞いて育った。三つ子の魂百までというが、私が航空機が好きなのはこの影響かも知れない。

 昭和8年鳥取市に転居してから鳥取砂丘に遊びに行き、初めてプロペラのないグライダー(プライマリー)を見たときは驚いた。20人ほどでゴム索を引っ張って飛ばしていた。

ソアラー オリンピア・マイゼとの出会い

 昭和15年紀元2600年記念事業として大日本飛行協会がソアラー、オリンピア・マイゼによる日本一周飛行を計画し、清水六之助1級滑空士の操縦でマイゼが鳥取にも飛んで来た。当時小学校6年生だった私は、先生に引率されて鳥取連隊の練兵場に見学に行った。

 複葉機の曳航索から離脱したマイゼは兵舎の屋根をかすめ、ヒューという風切音をたてながら歓迎の群衆の頭上で3回宙返りをし、スポイラーを出して下りてきた。車輪のない胴体着陸なので心配したが、そりと緩衝用のゴムが着いていた。クリーム色のスマートな機体は私の心に鮮明に焼き付けられた。

 帰宅後早速ボール紙で50分の1のスケールモデルを作り、Uコンのように翼端に糸をつけて振り回し、上に向けると宙返りをするので得意になった。

中学時代 滑空部に入部

 中学は滑空部のある鳥取二中に入り、毎週日曜日は砂丘で滑空訓練に汗を流した。ゴム索ではじき出したプライマリーをまた出発点まで引き上げるのである。上級生から順番に飛ぶので1年生は一日に一回飛べればよいほうであった。このときから鳥取砂丘は私の人生の中で切っても切れないウエートを占めている。戦時色が強くなってグライダーも全国の学校で取り上げ、関西方面の師範学校の滑空部などが鳥取砂丘で滑空訓練をするようになり、前の座席を囲ったセコンダリーが沢山飛ぶようになった。

 昭和17年4月中学2年のとき鳥取県の中部にある倉吉中学校に転校した。ちょうどその年に朝日新聞社が初歩滑空機(プライマリー駒鳥型)を全国の中学校に寄付してくれて倉吉中学校にも機体が送られてきた。私は2年生だったが皆より1年間の先輩で搭乗回数は多く、上級生よりも中心となって滑空訓練に精を出した。教官は石岡市出身の塚本氏が赴任された。

滑空工業専門学校を受験

 戦争も激しくなって学徒動員のため工場で働くことになり、飛ぶこともできなくなった。昭和20年1月上級学校を受験することになり、茨城県石岡市に大日本飛行協会が設立した滑空工業専門学校に行った。受験は表向きの名目で、実はグライダーが見たかったからである。格納庫の中のグライダー群の中からまっ先にマイゼを見付け、許可を得てコクピットの中に搭乗させてもらった。座席の前のメーター類を眺め、踏み棒に両足を乗せ、操縦桿を握る。曳航フックのレバー、スポイラーのレバーなどを触れてみるだけで気分は大空に舞い上がったような感激にひたった。近眼のため不合格となったが悔いはなかった。地上のマイゼに乗っただけで満足であった。

 口頭試問のとき、配属将校からグライダーの戦時の役割について質問があり、私なりにいろいろ答えたが、配属将校からグライダーによる特別攻撃はどうかとの質問には返答に窮した。軍部はそこまで考えていたのだろうか。戦後ロケット戦闘機秋水、ロケット特攻機桜花などの記事を読んで了解できた。操縦訓練用のグライダーを作っていたのである。

浜松高等工業専門学校 

 次に浜松高等工業専門学校の航空機科を受験しパスした。学徒動員で名古屋の三菱重工に配置され陸軍の飛行機を造っていて終戦を迎えた。航空機科は廃止されたので学校を中退した。

終戦後

 裁判所に奉職した。翼を失ったやりきれなさを模型飛行機作りで紛らした。占領下の日本は航空機の研究、製作は禁止されていた。昭和26年ごろ、大久保1級滑空士(大久保式ハング・グライダー作者 昭和15年製作)、石黒1級滑空士、川上滑空士等が中心となって鳥取県高速度スポーツ連盟というスポーツ団体をつくった。表向きは自動車、モーターボートのスポーツ団体ということで発足したが、中身はグライダーの愛好者の集まりで、講和条約発効後日本最初の第1号機を飛ばそうと、20名ぐらいのメンバーが集まり、張り切ってセコンダリーグライダーを製作した。私は昭和27年に東京、昭和29年に広島に転勤したので、初飛行には立ち会えなかった。残念だった。

ラジコングライダー

  昭和36年、9年ぶりに転勤して鳥取に帰った。そのころ無線操縦(ラジコン)が普及してきたため、ラジコンの模型飛行機に熱中した。エンジン音を響かせる飛行機よりも静かに滑翔するグライダーのほうが私の性格に合っているのか毎週日曜日には鳥取大砂丘に足が向くようになった。

頓所式2型ハング・グライダー

 昭和50年頃頓所好勝氏が翼長3メートルの無尾翼機を持参して来られた。発砲スチロールの対象翼型の機体で、ハング・グライダー開発のテストであった。2年ほど続けてラジコンでテストされ、3年目には実物のハング・グライダーを持参された。毎年奥さん同伴で来られ、仲良く砂丘で実験され、私から見ればとても羨ましかった。奥さんの内助の功は相当なものだと思う。 

  頓所さんは、昭和12年に我が国最初のハング・グライダーを完成しておられたが、2型機は翼幅9m、テーパー比3:1、翼厚15%、最大翼厚位置25%の対象翼、後退角25度の無尾翼機であった。昇降舵、方向舵はなく、翼端のエレポンは上面だけが跳ね上がって抵抗板の役目をするようになっていた。実際に高度を落とすことなく、浅いバンクでくるりとうまく旋回していた。砂丘の通称馬の背と呼ばれている一番高いところから海岸に向けて発進して、上昇気流に乗り、100mほど海岸まで出て、東に方向を変え、500mほど海岸線に沿って東進し、180度旋回し、1000mほど西進して海岸に着地された。普通のロガロ式ハング・グライダーも一緒に飛んでいたが、それらの一段上空をゆっくりと滑翔し、滞空時間は5分45秒3であった。その後阿蘇山でも飛ばれたということです。

 当時私は49歳、頓所氏のお年は分かりませんが、60歳前後だったと思いますが、グライダーにかける情熱の深さには頭の下がる思いです。あれから30年以上ほど経ちますが、今でも当時のことははっきりと覚えています。私には実機は手が届きませんので、自作設計のラジコングライダーを作って、時々砂丘で飛ばしております。1日砂丘に出てグライダーを飛ばせば、1ヵ月寿命が延びるような気がしています。

第3回投稿                                   マイウイングの思い出

 昭和50年ごろ私がラジコングライダーを鳥取砂丘で飛ばしていたころ、ハセ科学模型店に電話がかかってきた。鳥取砂丘でラジコングライダーをやっている人はいないかということでした。砂丘の主とまで言われた私のこと、何があっても引き受けねばと引き受けました。様子を聞くと広島の方で自分が飛ぶためにまずラジコングライダーの安定性、舵の効き具合を調べるということで無尾翼のテスト飛行をするということでした。

上記写真説明 マイウイングの翼型 作図は頓所好勝

上記写真説明 マイウイング翼の平面図

 砂丘の打ち合わせた所に行ってみると60歳過ぎた背の高い老人と友人でした。持参された模型グライダーは実機は翼幅9メートルであるが模型は三分の一の3メートルの無尾翼であるということで、翼型は自作の翼弦前4分の1の所最高厚さ15%の対象翼であるということであった。          

左右主翼の先端には、上向きに上がるエルロンとラダーを兼ねたラダロンと呼ぶ小さい翼があり、左右同時に動かすと上げ舵になるという説明でした。

 模型グライダーは発泡スチロールの厚板を熱線で対称翼に切ったものでした。

模型グライダーのテストを行いました。砂丘の海岸寄りの一番高い通称「馬の背」と呼ばれる高所から長い斜面に沿って手放しで投げると素直に真っ直ぐ飛び、左右の舵を打つと流れずにすぐ方向転換をしてくれる。上下の安定もよい。

次は本物で飛ぶぞと喜んで帰られました。

よくよく聞いているとご本人は昭和12年に長野県でハンググライダーを作り、飛ばれた頓所好勝さんだということが分かり歓喜の念に浸りました。鳥取でグライダーの指導をしておられた大久保正一さんや川上さんともハンググライダー仲間として親しくしておられて、それで鳥取砂丘を選ばれたのかなと思ったりもしました。

 次の年は本番です。昭和52年 奥さんも同伴です。佐野さん、川上さんと近くのホテルから馬の背まで機体を運び組立、点検、風向少し東寄り、でも馬寄せからはほぼ真北、海の方から4m~5mぐらいの風が吹いている。頓所さんは頭で機体を、左右の手で左右の操縦桿を持って機体を支え、少し走るとすぐ浮き上がった。

上記写真説明 いよいよテストフライトです。マイウイングのテスト飛行にはいつも奥様が同伴と聞いています。砂丘にありますホテルの前で。自作の運搬用カーゴ。

上記写真説明 奥様と出発準備。とても仲良くそしてチームワークがとれたお二人です。

最初は頭で機体を保持されれいます。  「いざ出発」

海から吹き上げてくる上昇気流に乗ってすぐ上昇、他にもハンググライダーは飛んでいるけれど、マイウイングの方が一段上に達しているようであった。

上記写真説明 馬の背砂丘から真北に助走。即浮上する。

 海岸にでてから馬の背に沿い、東に転進砂丘の東端に達し左旋回海の上からまた、馬の背までもどって右旋回。

 西進、速い!海岸のほうは東風がきつい、風に押されている感じだ。早くUターンして東進し、高度を取られないかと思っているうちに機体が砂丘に隠れた。  

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皆駆け付けた。機体は右翼の前縁のプランクの一部が破れていたが大したことはなく、頓所さんは砂を被って目が明けられない状態であった。私が砂丘入り口の土産屋さんのところまで走って帰り、やかんに水を入れてもらって、また海岸まで運んで目を洗ってもらいました。賀露の大久保さんの家まで引き上げ、テスト成功を皆で祝いました。

 頓所さんはその後、鳥取市霊石山や九州阿蘇山に行かれ。1時間以上の滞空をされました。いつの日か分かりませんが、私がラジコングライダーを飛ばすために運んでいるところと重なって写真にとられていました。