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平松時善子爵滑空士

更新 2024年8月11日

平松家第15代当主平松時善子爵のご紹介になります。個人的な内容は簡単に済ませます。日本では明治になって華族制度が仕上がり、江戸時代の公家の中から華族が仕上がり平松家も華族に入り「子爵」の称号を名乗ります。代々「名」に「時」の一文字が入ってきます。ここでは古の滑空士「平松時善」のご紹介であり身分のお話はこのくらいにしておきます。

さて、平松滑空士がいつのころから滑空機に目が向いたのかわかりませんでした。古いアルバムを拝見すると、空への志が強かったことは理解できます。というのは複葉機で飛んである写真を見ております。しかし機体の一部からその年代を探すのができませんでした。

片や華族の世界として能楽にいそしむ姿や、皇居内でのご結婚祝儀の写真は眼を見張るものがありましたが、さすがにこの写真は皇族方々が写っておられまして、開帳いただいた青葉笙子様からは「これはあなたにお見せするだけで脳裏に収めてね」ということでした。また千葉の埋め立て地で開催される自動車レースに参加されるなど、華麗な行動が随所に見えていました。九州帝国大学の資料によると佐藤先生が開発された九帝3型練習機の頃から九帝大にお見えのようで九帝5型の時代はすでに試乗されており、九帝7型時代は、志鶴忠夫と共にかなりの登場が見えています。写真も残されていました。

平松時善は千葉に「旭航空㈱」を設立する前に佐藤博助教授に頼んで九帝3型、九帝5型、九帝9型のA型やB型、九帝7型の製作ライセンスの契約まで取り交わしてありました。

それでは青葉笙子様からお預かりしました平松時善遺品集を公開いたします。なおクレジットは青葉笙子遺言に従って、「あくまでも平松時善様のお名前を残してください」に沿いますのでご承知ください。写真は多数枚にわたりますので一部のみ公開いたします。

追――河辺は平松時善子爵とドイツから招聘したウオルト・ヒルトは必ずどこかの段階で紹介があっていると考えてきましたが、立証するものがありませんでした。なお旭航空株の機体説明は「滑空機製作所アラカルト」でご紹介いたします。