この欄を担当いたします事務局の河辺と申します。
私が佐藤博博士を描く時が来るとは考えていませんでした。
私が小学校時代の思い出に博多の喫茶店で昼頃から夜まで佐藤博先生、前田建一氏、田中丸治廣、父河辺忠夫の4人衆がテーブルをはさみ、滑空機のスケッチや滑空場の候補地などを、静かに語る姿を横に座ってみてきたことがここで役に立つとは思ってもいませんでした。
さてここでは「佐藤博の薫り」という、あまりにも抽象的ですが、若い大学生を指導する佐藤博、滑空機をこよなく愛してきた佐藤博、チャーチル会で絵筆を握っていた佐藤先生、人の話を漏れなく聞いておられた佐藤博、クリスチャンでありながら宗教の話を全くされなかった佐藤博、政治の話も無関心、呑み事は断らずにこなされるPros佐藤。
多くの風をまとめると「薫り」という言葉に行きついた次第です。
「何にも染まらない」生き方は見事なものをお残しになりました。
その人生は佐藤とみ子奥様の素晴らしい支えがあったことを付け加えさせていただきます。今回発掘されました佐藤博史資料の中から少しですが、皆様にお役に立てそうな史資料をお届けいたします。
なお公開資料は時系列などにはなっていませんのでご了承ください。
これから先は、佐藤博先生の多くの薫り(逸話)をお届けいたしますが今まで表に出てこなかったお話ばかりです。まず私、河辺新一と佐藤博先生の一番大きな接点をお話いたします。昭和49年に河辺は家庭を持ちます。その時のご媒酌が佐藤博夫婦でした。
詳細なお話は後日に書かせてください。
2024年3月17日記
上記写真は披露宴前の集合写真です。胸の叙勲が光ります。ここで一つのドラマが見えるのです。筆者がご媒酌のお願にご自宅にお伺いします、婚約者、婚約者の母、私の両親、筆者の3名です。佐藤先生のお話の中で「実は、天皇陛下から叙勲をお受けしたのですがそれを皆様にごらん頂ける場面が全くなかったのですよねー、そこで佐藤のお願いですが当日叙勲の着用をさせてもらえませんか」というありがたいお話を賜っているのです。話はあちらこちらに飛んで、ご媒酌で必要なお打合せはどこかに飛んでしまって、河辺忠夫の18歳ころ、大日本青年航空団の滑空士として、九州帝国大学航空会に出入りしながら田中丸治廣技官と仲良く「作る、飛ぶ」の活動をしてきた話を筆者にもれなくお話いただけたのです。多分誰かに当時の活動を聞き語りにされたかったのでしょうね。私はこの時代の話は一切父から聞いていませんでしたので、驚きでした。自分のオヤジの青春時代の話を、親父を横にして良きも悪しきも、明るく話される佐藤先生の活舌の光る事。今回それを証拠立てる写真が佐藤博史資料の中から出てきたことに何故か目頭が熱くなっている私がここに居るのです。文責河辺。