更新 2024年10月29日
懐かしい写真です。昭和32年と裏書があります。どこかの小学校の運動場でしょう。昭和30年代は私もゴム飛行機模型、滑空機模型の工作に明け暮れた年代です。キットを買うより、すべてが自作でした。駅弁の空き箱は貴重な素材でした。町内に昔、明治45年に南極探検隊白瀬隊に乗っていた船大工の息子さんが住んでおられ宮大工をされていて、私が学校帰りに、いろいろな木材加工を教わった知恵者の学び舎でした。おかげで模型飛行機は福岡大会で常勝です。しかしその上を走っていた先輩は戦前の前田航研工業の三男前田H氏でした。ここはどうしても越せなかった。前田建一の次男T氏はこの時期すでにグローエンジンの常勝者でしたね。
更新 2024年10月27日
佐藤博史資料の中には、使用済みのカレンダーの絵面なども残されています。年表が1938年版ですから在独の時期となります。日付ページは残されていませんが、滑空機の写真や滑空風景の絵面を持ち帰ってありまして、糊付け付箋紙に「●●雑誌社へ」というものが見え「佐藤」の小判印が押されています。多くのページの中で特に重要性が対物を公開します。
写真はワッサクッペの滑空大会に参集した車の駐車場の様子の航空写真ですが、拡大しますと、すごい車のオンパレード。またバイク駐輪場には側車も見えます。昭和13年の日本と比較してみましょう。
更新 2024年8月10日
またまた、新発見かな。この機体今まで見たことがない。
その昔、昔です。明治44年、1911年に九州帝国大学が誕生。その以前福岡藩の医学を目指す学問所として活発な活動がありました。昭和20年大日本帝国の敗戦後、教育機関の改革で昭和22年に「九州大学」として同じ福岡市博多区箱崎で多くの若人を育み、医学は世界に名をはせるまでになり、宇宙への挑戦や無人自律飛行などの実績は地味な活動ですが一歩一歩の完成に目を見張るものがあるのです。
さて、九州大学では広がっていく研究設備のために広大なキャンパスが必要となり、福岡市西区のはずれの大自然の中に(一部に糸島市を含む)近代的校舎が出来ました。それはそれでいいのですが大学の移転というのはこれがまた膨大な「引っ越しのエネルギー」を必要とします。実は工学部航空工学室を解体時「㊙」なことが起きて河辺も飛んで行ったものでした。(㊙談話は別のところでコソコソとお話します)。さてここではその引っ越しのあと、おおくの荷物が新しい校舎に届き、新しい実験器具も納入されていく中で「航空工学」関係の荷ほどきの中から「????????」みたいな模型が出てきたのです。今のお若い方では「なんじゃらホイ」様なモックアップ。まさしく帝国時代の滑空機の風洞実験模型が発見されました。多くのご関係者が「あれでもない、これでもない」と頭を痛める機種判定が今にあります。つまりこの機体は実際にはできていなかった、でも近似の機体がいくつかあるのは多くの三面図から見えています。でも「これだ」という決定打がありません。そのような楽しい「パズル」と向かい合うのも私たちの研究なんです。少しですが写真を貼ってみます。
上記のカラー写真に関連した資料が見つかりました。このように発掘現場に居合わせることは鳥肌が立ちます。まさかの立証写真です。2023年に発見された風洞模型の木型が実際に九州帝国大学のゲッチンゲン風洞で、それも佐藤博教授と田中丸治廣技官のもとで何かしらのデーターが取られたのでしょうね。すくなくとも1945年以前の実験です。
更新 2024年8月1日
以前貼った写真と同じです。実はこの写真妙に頭に残っていました。裏書は「プライマリーの飛行機曳航の最初の写真」と書かれていました。確かに何かしらデーター取のフル装備です。何故か頭に残っているので今回、交流が始まったドイツの滑空機研究家に見ていただきました。
「おおおお凄い写真を持ってますね、これは凄い」という返事です。さらに詳しい説明をいただきました。「この機体はプライマリーではありません。驚かないでください、この機体が全翼滑空機のテスト機なんです。もちろん発明はリピッシュ博士ですよ、有名なアレクサンダー・リピッシュ。パイロットの横に立って何やら指導しているのはリピッシュ博士ですね」という解説でした。(解説文の一部ご紹介)多分全翼滑空機の試作機の飛行機曳航なんでしょうね。やはり聞いてみるものです。この資料はドイツでも非常に珍しいようでした、当然日本では初公開と思います。